俺俺 感想&個人的解釈(小ネタ・演出編)
映画の内容を結構ペラっと出すので、
※ネタバレ注意
です。
ゴリラの必要性
同僚におごらされたあと、交差点で別れるシーン。
拳振り上げて「こらっ!」ってやる均くん、と同じポーズのゴリラくん。
1回目→「かわいい~!・・・でもいる?これ」
2回目→「何か意味がある気がする・・・」
3回目→意味を考えてみました!!
ゴリラはもう一回登場します。
身代わりで家電量販店に行っていたナオと均が待ち合わせるシーン。
借りていた腕時計をナオが返そうとするも、
「また身代わり頼むかもだし・・・」
って貸したままにする均。
腕時計を見せて笑う均、ナオ、そしてゴリラ。
このゴリラ、「腕時計は貸したまま」というのを観ている人に印象付ける役割を担っているんじゃないかなと思うわけです。
スピード感にあふれ、ジェットコースターのように展開するストーリー。
些細な出来事って結構忘れてしまうものです。
この時点で、「腕時計を貸したまま」なのは、些細な出来事。
でも、死体がナオだって気づくための大事なエピソードなわけです。
しかし忘れる。
ここでゴリラの存在意義が明らかになるのです。
「なぜゴリラ?」って思うことが正解。忘れないから。
でも突然ゴリラに出てこられても、戸惑う。
ゴリラに意識が集中しちゃう。そしたら腕時計の行方は忘れる。
だから1回目が必要だったのかな?って思う。
まだストーリーもわかりにくくない序盤で、
「この交差点にはゴリラがいる」ってのを覚えといてもらう。
つまり、
ゴリラ重要じゃん!
っていう結論。わたしの勝手な解釈だけど。
あなた、見られてますよ
「あなた、見られてますよ」と書かれた看板
ところどころ登場する「ただ見てくるだけ」の人
特に、「ただ見てくるだけ」の人って必要ある?
って1回目観たときに思いまして。
でも、2回、3回と観るうちに
均母の「私が見えてる?」に対応しているのかな?って。
物語の怪しさだとか不穏な感じとか
これから何かが起こる予感を印象付ける演出になってはいるものの、
「あなた自身をちゃんと見てるよ」
っていうメッセージなのかなって思いました。
「お母さん」という役割しか見てもらえない虚しさがあって、
均のお母さんは「おふくろ」から「マサエ」になりたかったんだと思う。
「お母さん」の役割の中に存在している「私」は見えていますか?って。
大樹の母親も、「息子」の役割を果たしてくれるのであれば
それが均だろうが大樹だろうがどっちでもいいわけで。
自分のことをちゃんと見てくれている人がいないと、自分は形成されない。
でもそれは、自分が認めてあげるだけではだめで。自分で「マサエ」だと思っていても、息子が「マサエさん」って呼んでくれないと意味がなくて。
たくさんの俺たちの中にいる均は、個性がなくて埋もれてしまっているけど、他人の中にいるときはちゃんと「永野均」の個性が生きているんだよね。
ちょっと何言いたいのかわからなくなってきたけど(笑)
あの視線にもちゃんと意味はあるってこと。たぶん。
わたしは、この俺俺の世界は、
永野均の心象風景(脳内)を現実に投影したもの
っていう解釈でいるので、
「誰か俺を見てよ。俺自身を見てよ。」
って深層心理の表れなのかなと思ってみたり。
だから、オレオレ詐欺も本当は誰かに気づいて止めてほしかった。でも捕まりたくはない。という気持ちが、白バイの人を生み出したのかもなー
とか。
うん、よくわかんないね(笑)
給水塔
給水塔のあの形。
見れば見るほど、たくさんの俺がふるいにかけられているように見えてくるのはわたしだけでしょうか?
たくさんの俺がぼんって詰め込まれて、下に行けば行くほど厳選された俺だけが残る、みたいな。いや、凝縮された俺?
まあ、つまり、わたしにはこう見えるわけです。
井ノ口徹
選挙ポスターもずらーって並んだり(増殖)、はがれかけてたり(削除)、このあたりもこだわりが感じられるよねー!
削除のニュース
一個一個、〇〇削除って名前がちゃんとついてるのに感動。
かめちゃんの演技を見たいんだけど、後ろの画面に映るニュースも気になって、このシーンは目が大変です。
俺俺図鑑に感謝です。
また追加するかもしれぬ。
とりあえず以上!