なつっこいね、にゃんにゃん

KAT-TUNについて語る。

「青い種子は太陽のなかにある」を観劇して

テラヤマ80×ニナガワ80のアニバーサリーイヤー、幻の音楽劇に亀梨和也が挑む! 

劇作家・寺山修司の生誕80年、演出家・蜷川幸雄の80歳。このアニバーサリーイヤーに上演される音楽劇「靑い種子は太陽のなかにある」。奇跡のタッグとなった本作品の座長を亀梨和也が務める。松任谷正隆が劇中歌を手掛け、高畑充希マルシア六平直政など実力派の役者が脇を固める舞台の中央に亀梨和也が立つ。

 

すれ違う切ない恋愛を主軸に、「正しい」とは何かを問いかける物語ーーー。

舞台は1963年夏、浮浪者や夜の女たちが集うスラム街。そこに浮浪者救済事業として水道・ガス完備の近代アパートが建設されることになる。スラムで出会って恋に落ちた賢治と弓子は、造船所の工員と深夜レストハウスのウエイトレス。生活のリズムがあべこべな二人は、立ち入り禁止となったスラムで黄昏時だけの逢瀬を重ねる。ある日、賢治が工事現場で朝鮮人の作業員が転落死する事故を目撃してしまう。しかも、現場監督や市役所の者たちはその死体をアパートの土台のコンクリートに埋めてしまったのだ。真実を明らかにしようと奮闘する賢治と弓子だが、警察にも人権擁護委員会にも相手にされず、アパート入りを望むスラムの人達のためにこのまま黙っておくべきかと思い悩む。それぞれの「正義」の間で葛藤する賢治に訪れる結末とは・・・。

 

賢治が憑依した歌声、胸を締め付けられるようなハスキーボイスが涙を誘う。

 喉をしめつけられたような、苦しみに悶えるような、感情のこもった切ない歌声が胸に響く。亀梨和也のハスキーボイスが物語に彩りを加え、徐々に熱量を増していくのが分かる。凛とした美声で歌い上げる高畑充希、迫力のある声量で会場の空気を震わせる花菜とマルシア、パワー漲る歌声をエネルギッシュに放出するスラム街の面々。その中で亀梨和也の歌声はどこか異質な雰囲気を醸し出していた。歌声に存在感があった。賢治が宿っていた。大多数と異なる方向を見つめる賢治の、馴染めない孤独感・居心地の悪さ・正義への執着・葛藤との闘いが散りばめられた歌声。群衆に紛れていても、そこにだけスポットライトが当たっているかのように、「賢治」がいた。

 

表情や声質・仕草、指先まで神経の行き届いた豊かな感情表現がステージの色を変えてゆく。

恋する相手に初めて声をかけるときの勇気を振り絞った声、嬉しさと恥ずかしさを滲ませた早口な会話、見つめたいのに泳ぐ視線、合わせて歌ってもらえたときに驚きと喜びで中途半端に途切れる歌声、緩む口元、そわそわと落ち着きのない指先。初々しい恋心を全身で演じ、微笑ましい柔らかい色にステージを染め上げた。一人違う未来に思いを馳せ交わらない目線、焦燥感が混じる息せき切った叫び、きつく握り締められた拳、自分の立ち位置に迷う足元、もどかしさややりきれなさに首を絞められているかのようなか細い声、悔しさから力の入る肩。葛藤に思い悩む姿を、細部まで感情に支配された繊細な演技で魅せ、不穏な暗い色で会場を包む。はにかむ表情につられて笑顔になってしまう、目から零れる涙に胸が締め付けられる、声にならない叫びに息が苦しくなる。つい感情移入してしまう程、ステージから放出される感情を全身で浴びていた。

 

太陽は沈むべきか沈まぬべきか、多数派と少数派それぞれの願いはどちらが優先されるべきなのかーーー。

日がもしも沈まないならーーー。黄昏時にしか逢えない賢治と弓子は、少しでも長く恋人同士でいるために日没を憂う。月が出たなら、真っ暗闇ならーーー。スラム街の面々は、活動のできる夜を好む。日が沈まないことを願う少数派の賢治と弓子に対し、日が沈むことを望む圧倒的大多数。日招きの唄にあるように(ここでは日が沈むことを望む者が少数派となっている)、皆にとっていいことを優先せず、少数派の要望を貫き通した場合、悲劇が待っているのだろうか。逢瀬を重ね、距離を縮めていく賢治と弓子に競うかのように建設が進むアパート。無情にも日が落ち、別れなければならない二人に反し、夜通しの突貫工事でアパート建設はどんどん先を行く。アパートの完成を今か今かと待ち望む大多数の想いに応じるかのように、夜は必ず訪れる。必ずやってくる夜を、アパートに住む夢を、壊そうと奮闘する賢治と弓子の二人には、永遠の黄昏時は訪れない。日が沈みまた昇ることは当たり前の現象なので、賢治と弓子の願いが叶わないことも当然なのだが、それを望み行動すること自体が「悪」であるかのように二人はすれ違ってゆく。何かを諦めれば「正義」なのか、何かを望めば「悪」なのか。誰も強制できることではないし、どちらが正しいと決めつけることもできない。二人の願いは弓子の死を招いたが、最終的には、二人が願った「アパートを壊す(そして埋め込められた種子を掘り返す)」ことは、異なる方向を見ていたはずのスラム街の面々が望んで成し遂げることとなるのだから。

 

太陽の中に存在した「靑い種子」とは、

最大の疑問については、私個人の解釈となる。「種子」とはやはり、真実や愛のことなのだろう。未熟なものを指して「青い」と表現することから、未熟で、堅くて、まだ芽の出る気配のない種子。恋と呼ぶには早すぎる淡い恋心、誰にも信じてもらえず消えてしまいそうな儚い正義感、証拠を掘り出せない幻のような真実・・・それらが芽を出し花を咲かせることを願って、太陽の中に埋め込める。誰もが同じ方向を見上げて太陽に思いを馳せるように、この種子から咲く花も愛も真実も、全員の心が集まる旗印となることを期待してーーー。

 

「青い種子は太陽のなかにある」を観劇して

東京2公演・大阪4公演の計6公演を観劇した。幸せなことに、1階後列・バルコニー前列・2階後列・1階前列通路近く・1階一桁列中央×2と、様々な角度から観劇することができたので、観る度に新たな発見があり何度観ても飽きない作品だった。蜷川幸雄演出による群集劇は目がいくつあっても足りない程、それぞれのキャラクターが生き生きと存在感を放っている。後列から全体を見渡すもよし、前列でエネルギッシュで迫力のある演技を体感するもよし。通路を練り歩く演出では、楽しんで手拍子をする観客を見つけて目を合わせてくれる出演者たち。まるで作品の一部になったかのように、わくわくが止まらなかったのを覚えている。アレンジされ変化し続ける演技、出演者の引き出しの多さに感服した。歌声と歌声のバトルに心が震えた。素敵な楽曲の数々は、全ての曲を今でも口ずさめる。よくないと思いつつも、楽しそうに生き生きと合唱するスラム街の面々を観て、乞食に憧れを抱いてしまった。亀梨和也が起用されていなかったら、出会えなかった素晴らしい作品。全ての関係者に感謝して、今後も心の中で何度も何度も観劇の記憶を再生することだろう。