なつっこいね、にゃんにゃん

KAT-TUNについて語る。

俺俺 感想&個人的解釈

解釈の仕方は人それぞれで、正解も不正解もないと思う。これは、私の個人的な解釈です。3回観ただけの感想なので、この先何回か観てまた解釈が変わるかもしれない。とりあえず今の気持ちを書き残しておきたかったってだけ。

 

※ネタバレ注意

 

 

 

 

 

 

均がナオに見えたり大樹に見えたりする瞬間がある。立ち方座り方歩き方まで細部にこだわって役作りをし、完璧に3人を演じ分けていたのに、「どうして?」と疑問に思った。

 

その謎が、舞台挨拶で解明される。

 

「大樹とナオをうまく自分の中に取り込もうとした。だから均がナオっぽくなったりする瞬間がある。」そのようなことを亀梨くんが語っていて、納得。

 

違う俺だけど、やっぱり俺だから、客観的に見た俺の一面をうまく取り込もうとしているのだなと。

 

自分の中には善と悪がひしめき合っていて、自分の中の悪は認めたくないもの。後悔するようなことをしてしまっても、「あのときの自分はどうかしていた」と記憶から削除しようとする。

 

でも、完全に善、完全に悪ということはなくて、「自分の中の悪の自分」にも善の要素はあるはず。

 

均は記憶から削除してきた「悪の自分」の存在を認めて回収し、自分の中にまた取り込む作業をしていたのではないだろうか・・・っていうのが私の解釈。

 

そうすると削除っていう行為と矛盾してしまうけど、削除する=存在を確認するってことにしとく、無理矢理。

 

オレオレ詐欺をした悪の自分を、大樹の携帯を捨てることで記憶から削除しようとした。それを忘れるなと言わんばかりの増殖。オレオレ詐欺をした悪の自分の中には、息子に冷たくされる大樹母に「母を頼る息子」を演じてあげたかったっていう善の自分もいたはずだから。

 

田島は、自分を否定する嫌~な存在。でも、悪の自分を思い出させてくれるというか、認識させてくれるというか、「今のお前じゃだめだ!」って喝を入れて導いてくれる重要な存在なんじゃないかなって思う。今の自分は他人にどう映ってる?っていうのを俯瞰できる、みたいな。

 

ヤソキチは、カメラマンの夢を諦めた自分にとっては疎ましい存在。今いる場所を通過点として、夢に向かって歩き始めたから。俺の居場所・職場・立場が否定された気分になるから。でもそれもやっぱり自分で、「ゼロになる勇気」は自分の中にもあるんだって確認する。もしかしたら均はまたカメラマンを目指すのかもしれない。これは本当にただの想像っていうか希望だけど。

 

きっと、カメラマンの道が閉ざされたときに、ナオの無邪気っぽさも忘れてきちゃったし、大樹のような自信もなくしちゃったんだろうな。

 

最後の「なんでもない」は、ナオっぽくもあり、大樹っぽくもあり、だけどやっぱり本質は均っていう風に私には見えた。

 

俺俺を観る前に、「SOSの猿(伊坂幸太郎著)」を読んでいたからそれに影響されている部分もありますが、善の俺と悪の俺が脳内でひしめき合っているんです。どれが本当の俺?ってもがいているんです。その心象風景を私たちは見せられていたのだと思う。「夢オチ」っていうと安っぽくなってしまうからそういうことではなく、現実に俺の心象風景を投影しているのかな、と。だから現実であって現実じゃない。そのような不思議な世界を体感させてくれた映画でした。